ていねブログのイネ子です(^^)/
手稲鉱山の変遷ついて調べたことを私なりにまとめていきたいと思います。
噂「手稲山から金がとれる?」
明治20年代、「手稲山から金がとれるのではないか?」という噂が人々の間で言われるようになりました。実際に山に入って金を見つけようと掘っていた人もいたそうです。
そんななか、明治26年(1893年)に鳥谷部弥平治(とりやべやへいじ)さんという山歩きが好きな星置のお百姓さんが、星置川の上流で金を発見したそうです。
手稲鉱山の変遷
金の発見から閉山まで
●星置川の上流で金を発見した鳥谷部弥平治(とりやべやへいじ)が明治26年(1893年)に鉱業権を取得。私財を投じて試掘をしましたが、資金難により40年(1907年)頃に鉱業権を放棄します。
●鳥谷部弥平治が鉱業権を放棄後は、元道庁職員の石川貞治が鉱業権を取得するとともに鉱山を「手稲鉱山」と命名。一時は相当な成績を上げるが、鉱脈の探索に失敗し資金難で撤退。
●この後、鉱業権は山崎幸輔、吉野営蔵の手に移るなど転々とします。
●昭和3年(1928年)に、鉱業関係者である廣瀬省三郎が鉱業権取得と鉱山所有権になり、本格的な鉱山事業が始まる。
●昭和10年(1935年)、広瀬・藤田鉱業(小坂鉱業)と三菱鉱業の2社による共同経営となるが12月には三菱鉱業(株)の単独経営となった。
●昭和15年~17年頃(1940~1942年)、鉱山の最盛期を迎える。(年間採掘粗鉱量=65万t。金1.8t、銀25t、銅800tなど)
●昭和18年(1943年)、金山整備令により銅鉱山に転換し、戦後急激に生産量が減少。
●昭和29年(1954年)、荒川鉱業株式会社へ鉱業権を譲渡。
●昭和32年(1957年)、千歳鉱業株式会社へ鉱業権を譲渡。
●昭和46年(1971年)、鉱量枯渇のため操業を中止し閉山。
閉山後の管理
●昭和46年(1971年)に閉山後、千歳鉱業株式会社が保有する鉱業権を順次放棄し、昭和51年(1976年)にすべての鉱業権を放棄が完了。
●平成9年(1997年)には千歳鉱山株式会社から下川鉱業株式会社へ鉱業権譲渡。坑水処理の業務にあたる。
●平成18年(2006年)、下川鉱業株式会社はエコマネジメント株式会社に社名変更。
●平成18年(2006年)5月、鉱害防止施設更新工事(排水斜坑、新水処理施設等)に着手。
●平成20年(2008年)12月、新施設運転開始。
※坑水処理についてとても参考になるページを見つけました。(→https://mric.jogmec.go.jp/kouenkai_index/2010/briefing_100824_6.pdf)
手稲西小学校「鉱山の部屋」
手稲鉱山の関係者が鉱山周辺に住宅を構えたことにより、手稲村星置地区・金山地区の人口が急速に増加。このことに伴う児童の増加に対応するため、昭和11年(1936年)手稲村立軽川尋常高等小学校手稲鉱山特別教授場として開場、翌年には手稲村立星置尋常小学校として当校が開校し、幾度の校名変更の末現在の手稲西小学校に至る。
手稲西小学校には手稲鉱山の歴史を展示物などから学ぶことができる「鉱山の部屋」が設けられています。
手稲鉱山の変遷を調べてみて、「金の発掘」というキラキラした輝かしい部分だけではなく、発掘するために費やさなければならない資金や人手のこと、また、閉山後に残された「坑水の処理」などの課題について気が付くことができました。私が大好きな星置公園周辺も、実は手稲鉱山の沈殿池があったところだったということを知ることができました。手稲西小学校をはじめ、現在のイムス札幌内科リハビリテーション病院なども鉱山が栄えた時代に整えられた施設で、名前を変え現在も同じ場所で存続しているということを知ることができました。
歴史を調べてみると普段の暮らしが少し変わって見えるので本当に面白いです。
手稲鉱山についてはほかの側面からも調べてみたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございます(^^)/